「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」ルカ15:30

家を出て、遊びほうけて好き放題をした弟息子が、父のもとに戻って来た。毎日待っていた父は大喜びで、家までは遠かったのに、彼を見つけ走り寄って、抱き口づけした。「かわいそうに思い」と、父の心はあわれみで、溢れ返っていた。身も心も、ぼろぼろになって戻った息子を抱きしめて、喜び祝おうと宴会を開いた。

 

 「死んでいたのが生き返り」放とうしていた間の事を、その挫折と孤独、うちひしがれた心の状態を父は理解し、父の心は、愛と慈しみで溢れ返っていた。しかし、兄息子は、行方不明の弟が戻ったのだが、全く喜べない。怒りが湧く。怒って、家に入ろうともしなかった。放とうざんまいして、帰って来て、宴会を開くとは、と抗議する。

 

兄は「私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません」と。毎日きつい労働をし、遊ぶこともせず、ずっと仕えて来た。しかし兄の心に喜びは無かった。義務であった。ほうとうした弟が帰宅した時に、兄の心の奥にあった本当の姿が現れ出た。

 

はめをはずす事もせず、毎日重労働をしている自分は、一体何なのか。しかし父親は彼を一言も責めていない。動機が間違っていると、叱ってもいない。むしろ気持ちを受け止め、なだめている。いつも私が一緒にいる。私のものは全部お前のものだと。

 

最大限の愛情だ。父は、兄息子へ何もかも与え尽くしたい愛と慈しみで溢れている。今、兄息子の状態なら、そばにある父の溢れる愛に気づけるよう祈ろう。

 

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兄息子は父の近くにいて、言いつけ通りに働くが、父への愛は無かった。父の愛もわかっておらず、喜びも無く不満でいっぱいだった。父は、兄へも無条件の溢れる愛でいっぱいだ。 あるがままを、御父に告げて行く事から始まるだろうか。