「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった・・すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」 ルカ24:16

エマオ途上の弟子たちは、主が十字架で死んでしまい、深い失望落胆にあり、「暗い顔つき」であった。喜びも平安も希望も失ってしまっていた。主が、かたわらを歩き、話しかけて下さっているのだが、それが主だとわからなかった。失望落胆にある時、主が見えなくなる。すぐそばに、かたわらにおられる主が見えない。

 

サタンが、人間を信仰から離すために、心に蒔くために、効果的な種は「失望」だと言った。人が失望してしまう時、祈る力も奪われ、失せてしまう。しかし事実は、私たちが、どんなに主が見えない時も、わからない時も、主はすぐそばにおられる。自分が主を感じられなくても、見えなくても、共に歩んで下さっている。何という慰めだろう。

 

主を感じる時には共におられ、感じられない時は、共におられないのではない。そして不信仰は主を見えなくする。「愚かな人たち・・信じない、心の鈍い人たち」「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった」主は不信仰は、はっきりと間違っていると言われる。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

 

あなたは今、失望しているだろうか。不信仰に陥っているだろうか。自分の思い通りにならないせいだろうか。しかし、問題は、信じようとしない、かたくなな、自らの心だろうか。自らの不信仰と認めて、悔い改めよう。その時、導いて下さって、今の状況を、境遇を通して、必ず主の栄光が現れるようにして下さる。

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失望し一人でとぼとぼ歩いているように思える時がある。心は塞がれていても主が共におられる事を覚えていたい。御言葉を開き、主との交わりを始めよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係