「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」ヨハネ3:27

主イエスが、群衆からもてはやされ、群衆の人気が、ヨハネから主へ移って行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、自分たちの師の人気が落ちて来た事に、やっかみや、いらだち、寂しさを感じていた。しかしヨハネは動じず、態度は立派だった。

 

自分はキリストではないと言明し、主が花婿であり、自分は花婿の友で、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは喜びをもって主に仕えていた。真に、主に仕える者は、喜びに満たされる。そして、ヨハネの謙遜は学ぶべき姿だ。人との比較に生きる時、必ず優越感と劣等感が生じて、その二つの間を行ったり来たりする事になる。

 

職場の同僚の昇進、学生間での成績や人気、又、ライバルの成功など、人と比較すると相手が優ると嫉妬する。肉のプライドが傷つくのだ。人の成功は、自分の失敗のように感じてしまい、人がほめられると自分がけなされたように感じる。根にある高慢から来る。ヨハネは主を認めて、へりくだった。

 

人の栄誉も、賞賛も、成功も、すべて主から来るものであり、主の主権を認めたのだ。そして、自分の欲望を満たす事、誇りを満足させる事でなく、主の与えて下さるもので満足した。ここが平安の秘訣だ。不平も不満もなく満ち足りた心だった。御霊に支配された人は、たとえ自分が認められず、評価されずとも、主の栄光が現されるなら、それを喜ぶ。その人には、主ご自身からの溢れる喜びと、満ち足りた平安が与えられるからだ。充分なのだ。

 

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心がザラついたり、穏やかでなくなり、平安が失せる時、プライドから来ていないか、御霊に探って頂こう。自分が心の王座にいるゆえの事だろうか。主は平安を与えたり、取り去ったりして教え導いて下さる。造り変えて行って下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係