アルコール依存症の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑があるから、止められないのだと言う。又、ギャンブル依存症の人も、ギャンブルがあるから悪いのだと言う。つまり、環境が悪いのだと。しかし同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもならない大勢の人々がいる。
これは環境のせいなどでは無いという事だ。何が問題なのだろう。私たちも形は違うが、同様だ。止められない習慣の底にあるものは、何だろう。止めたくない自分なのだ。止められないのでなく、止めたくない。心配症、思い煩い症の人がいるが、思い煩っていたい。思い煩いがないと不安で、思い煩って安心する。思い煩い依存だ。
おかしな話だが、心の底を正直にみると、そうなのだ。主はいつでも、ベテスダの男性のように「よくなりたいか」と問うていて下さる。出来るかとは問われない。「そうしたいか」だ。本当に良くなりたいかどうかだ。建前でなく本音はどうなのだろう。良くなりたいのだろうか。
環境のせいにせず、人のせいにせず、自らの罪を認め、無力を認める時、主は癒やしを与えて下さる。しばしば、罪を憎んでいない。罪を楽しんで愛している。罪には快楽があるので心地良い。罪を憎まなくては、主を愛することはできない。本音の部分を御霊に照らして頂いて、そのまま主に向き合おう
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良くなると労働しないといけない。人々の見方も変わり、社会的責任も生じ、楽でない面も出て来る。形は違うが、霊的な面であいまいにしておきたい心があるかも知れない。突き詰めたくないだろうか。主を求める心へと導かれるよう祈りたい。