「この方こそ、私たちの罪のための、ーー私たちの罪だけでなく全世界のための、ーーなだめの供え物です。」Ⅰヨハネ2:2

ある人が長年第一線でバリバリ働き続けていた。ところが、仕事に

行き詰まり、そこに対人関係も加わり、心身共に体調を崩してしま

い、やむなく休職となった。その時に、ひどい落ち込みに陥った。

仕事が出来ていた時は、自分が価値のある者と思えていたが、出来

なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。どうしても

受け入れ難い事であった。

 

成果主義の自分に気づかされた。弁解や言い訳で、自分を取り繕お

うとするが、無駄だった。仕事上の失敗を、自分を正当化し、人の

せいにしようとしている自分、又、人に恨みを根深く持ち、人を赦

せない自分だった。時間がある中、様々考え心探られ、プライドが

高く自己中心の自分の醜さを見せられた。

 

心苦しくて主の御前に出た。何もかもをことごとく打ち明け、気持

ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。その中で主の十字架が迫り来た。

「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわ

からないのです」その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事

がわかった。主の赦しの愛を全身に受け取れた。

 

そして、主は完全に赦して下さっているのに、自分が自分を受け入

れられないでいる事も示された。自分が赦され、いやされた時に、

人を赦す事ができると知った。何が出来なくとも、このままの存在

を受け入れて、愛し続けて下さっている主の愛が嬉しかった。自分

を裁く事を止めた時、人を受け入れる事ができた。

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罪人の罪のために十字架にかかられた主は、どこまでも的外れな私

たちを、罪なしと言って弁護してくださる。何というなぐさめ、感

謝な事だろう。この十字架の事実に立って生きていこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係