「イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』」ヨハネ13:8

ある時、主が手ぬぐいを取り、腰にまとわれ、弟子たちの足を

洗い始められた。順番に洗われ、ペテロの番になると、とんで

もない、恐れ多いとばかりに「主が私の足を洗われるのですか」

「決して洗わないで下さい」と、ペテロはそれを拒んだ。当時

はサンダルのようなはき物で、砂やほこりで足が大変汚れた。

 

彼はその自分の汚い足を、自分の師に洗ってもらうなどと、と

んでもない、恐縮で申し訳ないと思ったのだ。しかし、それなら

主と何の関係も無くなると言われた。自分の汚い部分を、主に見

せたくないという事になる。醜い部分はおおい隠したい、誰にも

知られたくない。しかし、主はそこをあらわにし、きれいに洗っ

て下さる。そこでこそ、主との関係が深められるのだと。

 

私たちは見栄えの良いところ、魅力のあるところ、能力のあると

ころを見せたいものだ。人に認められたいし、受け入れられ、評

価されたい。だが、主と私たちの間はそうではない。弱い、醜い、

汚い部分をすべて主に打ち明け、明らかにする時に、赦され、い

やされ、新たに造り変えられて行く。主は弱さを受け入れ、罪を

赦し、傷をいやして下さる。

 

主に心を開き、心を打ち明けて行こう。主との関係がより親密に

されて行く。この世の価値観は、弱さは悪で、強いことが善だ。

しかし御言葉は正反対で、弱さの中にこそ、主の力が現されると。

自力でなく、主により強くされて行く。又、罪は赦される。日々

に主のもとに行き、汚れた足を洗って頂こう。

 

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罪を犯すと、主に近づきがたく、離れようとしてしまう。肉は、

少しは、ましになってから近づこうとする。しかし主はありの

まま、そのまま来るようにと招いて下さっている。主の流され

た血潮に頼り、汚れたそのままで行きたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係