私たち信仰者は世にあって、世で生活しているのだが、この世の者
ではない。しかし禁欲主義でなく、世からの隔離でなく、又、世と
断絶するのではない。だからと言って、世にどっぷり浸かり、世に
埋没し、流されるのでもない。私たちは、この世にあって、この世
の人々と同じように生活する。しかしその原理が異なっている。
どこが違うのだろう。私たちは「神の言葉」が、自分を動かす原理
だ。この世の原理でなく、御言葉がどこまでも基準だ。御言葉に従
い、御言葉の価値観で生きて行く。だから、この世にいるが、世と
は違っている。人々は地のものを求めて生きるが、私たちは天を見
上げて生きる。
主が御父に祈られた。「真理によって彼らを聖め別って下さい。あ
なたの御言葉は真理です」。御言葉が真理だと。自分の内に根本的、
根源的原則が必要だ。確固たるものが無いと、特に日本人である私
たちは、周囲と同じである事が善であり、同じだと安心し、違って
いると戸惑う土壌がある。真理なる御言葉に基づいて、思考し、判
断し、行動しなければ、周囲に同調してしまい、いつしか飲み込ま
れてしまう。周囲を見て、考えや態度を変えてしまう。
日本には米軍基地や大使館がある。日本国内だが、そこは治外法権
で、本国の法律下にある。同様に、私たちはこの世にいるが、御言
葉が支配する神の国の領域にいる。この世と接触を断つのでなく、
人々を愛し、仕え、交流し、証しをして行く。しかし飲み込まれて
はならない。御言葉に従う時、御霊が助け、正しく導いて下さる。
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世の人と同じように見えても、主に信頼して歩む私たちは、どこに
いても主の御手に守られ力を受ける。価なしに主から受けたものを
また人にも与えられる。主に信頼して歩む日々はなんと感謝だろう。