「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたので す。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに 仕えなさい」ガラテヤ5:13

主が、十字架で罪について解決して下さったので、私たちは罪が完

全に赦され、律法からも解放され、自由にされた。しかし与えられ

た自由とは、自分の思うがままにする自由ではない。自分の思い通

りなら、それは肉のわがままで放縦だ。自由にはルールが伴い、秩

序があり、責任が伴う。その上に立っての自由だ。

 

ルールを度外視する事が自由なのではない。魚は水中で自由であっ

て、陸では不自由だ。魚は、水中という拘束の中でこそ、自由だ。

例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろうか。しかし譜面

通りに練習して行くと、曲を演奏できるようになる。スポーツもル

ールを守る事により、持てる力を発揮し大いに楽しめる。

 

しばしば思い違いをする。すべての縛りから解放される事が自由だ

と。そうではなく、拘束を受け入れて従う事、つまり戒めに従い、

御霊の導きに従うところに、真の自由がある。例えば、嫌いな人が

いると、肉は嫌っていたい。関わりたくない。嫌う事が、自由だと

思ってしまう。しかし人を憎むと平安を失い、心は苦しくつらく、非

常に不自由ではないだろうか。では、どうする事が自由なのだろう。

 

愛が無い事を認めて、主に愛を求める時に、主は取り扱って下さる。

その示しに従う中で、主からの愛が与えられて行く。憎むのではな

く、愛して行く時に、心は解き放たれ、自由にされる。平安と御霊

の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時に、自

由に、自由にされて行く。

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自我の思うままに生きる不自由さはもう十分に経験済みだ。愛がな

いから主の光の元にいき、主から力を受ける。絶えず主に行き御霊

 

に従おう。御霊は折々に導いてくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係