「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわってい た。彼は生まれながらの足なえた人で、歩いたことがなかった。」 使徒14:8

ルステラに、生まれつき足なえの男性がいた。生まれてから一度も

歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が

丁度そこに座っていて、じっと耳を傾けていた。彼は全く歩けず、

自分の足に関して、無力で何もできなかった。いかにしても、歩く

事は不可能だ。完全無力の状態だった。自分で何もできない。だか

らこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉

にすがる事ができた。

 

もし自分に力があれば、さっさと何でも自分でしていたであろう。

彼にはこの言葉しかなかった。すべての望みを託して、信じて賭け

た。この言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そう

できた。その信仰に、主の力が働き、奇跡が起きた。かつて、ただ

の一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり、歩き出した。

 

私たちも、自らの徹底無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策

も無く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。そのどん底

の時に初めて、信仰が働く。信仰を働かせる事ができる。自分の力、

方法に頼っている限り、自分に頼っている限り、主への信仰は無い。

信仰半分、自分の力半分というのはあり得ない。

 

御言葉があっても、肉は必ず自分の力、方法でやって行く。そこに

信仰の入る余地がない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明

け渡して行く事だ。それゆえ、自らの無力を知る事こそが、大きな

祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。むしろ、主から

の恵みだ。

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自分の知恵や力の及ばない出来事を時に主は送られる。ふり返ると

つらく苦しい時にはいつも、主の完全な守りと支え、導きを受け取っ

 

た。無力は主からの大きな恵みを受け取る時だ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係