有名な放とう息子の箇所に、兄息子が出て来る。放とうし尽くして
戻った弟息子を、父親は大いに喜び迎え、宴会を開いた。そこに
一日の仕事を終えた、兄息子が帰宅する。するとこの状況を聞き、
怒りで震えた。自分は今まで遊ぶ事もせず、我慢に我慢を重ね、
懸命に働いて来た。それを好き勝手して、財産を持ち崩し、遊び
ほうけて戻った弟。それを宴会とは一体どういう事か。納得できず、
怒りが収まらない。
世の価値観なら、兄の方が常識的に見えてしまう。こんな父親が
いたらどうだろう。そんな甘い事でどうする。世の中は厳しい。又、
同じ事になるだろう。まず使用人として、本気度を試すべきだ。弟
も弟だ。どの顔で帰れるのか。家に入る前に一言あるだろう。世の
価値観だ。だから兄に納得してしまう。
だが主の価値観は全く違った。父親は戻った息子が何をして、ど
んな状態であれ、丸ごと受け入れる。どん底で、ぼろぼろで、打ち
のめされた、無力なままを抱きしめた。又、弟息子だけでなく、激
怒し反発する兄息子も、いさめも、責めもしていない。兄息子も、
そのまま受け入れ、「私のものは全部おまえのものだ」と言う。
兄は、父親のすぐそばにいるが、父の愛がわからず、心は全く離
れていた。弟より問題だったかも知れない。神の私たちに対する
愛はこういう事だと。罪しか犯せない、どんなにダメ人間でも、打ち
のめされて、ぼろぼろでも、心底受け入れ、包み込んで下さってい
る。いつも主のもとへ行こう。
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自分の力で、我慢しながら労していると、必ずしていない者を見る
と腹が立ち、さばくと言われている、自分は、こんなにしているのに
と。主から離れ、恵みから落ちてしまう。気づける事が感謝だ。気
づく度に、主を仰ぎ、常に恵みの中に、立ち返れる。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係