幼児が、口の狭いキャンデーボックスに手を入れ、幾つものあめを
握りしめ、手が出ないと泣き叫ぶ。飴を放すと手が出るよと言うが、
絶対に嫌だと泣くばかり。こっけいな光景だが、私たちの霊的生活
に似ているだろうか。心が悶々と苦しいだろうか。その時は、何か
を堅く握りしめている。それは憎しみや妬み、さばく思いだろうか。
思い通りにしたい事柄だろうか。
憎しみや妬みやさばく心は、相手でなく、自分が苦しい。平安が無
い。喜びも無い。飴を手放すなら、ボックスから手が出て、自由に
なる。憎しみや妬みを手放す時、心は解き放たれ、喜びと平安が戻
る。しかし強烈な自我は、決して放したくない。苦しいのに、憎ん
でいたいし、妬み続けたい。罪の性質だ。「出来ません」「したく
無い者です」とありのままを認める事から、祝福が始まる。
ある人が子どもの難病を、どうしても受け入れられないでいた。
「なぜ? どうして?」「自分の子が?」と涙は溢れ、グルグル思い
は回り、苦しみ、つぶやき、主に対して反抗している自分がいた。
同年齢の子どもを見れば涙が出る。悶々の心は苦しくてたまらず、
とうとう限界で、ギブアップした。
行き詰まり、煮詰まり、そうせざるを得ない状態だった。自分自身
も、子どもも、将来も、不安も、恐れも、何もかもを、主に明け渡
した。その時、状況は全く変わらないのに、心に初めて安堵と平安
が臨んだ。委ねられないで握っているなら、その事を主に告げて、
ありのままの心を祈ろう。
-----------
肉はいつまでも憎んでいたいし、明日を心配していれば安心だ。こ
のままでは解決がない事に気づきたい。肉の思いを認め、主に助け
を祈ろう。主が心配し、悔い改めも打ち勝つ力も与えてくださる。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係